top of page

PBN No.224コラム『福岡庄太郎 “世界を駆け巡った冒険家がたどり着いたところ”』


こうした流れの皮切りとなった日本人移住と開拓を実施するうえで、政府との交渉人、通訳、ガイド役等を務めた重要な存在を紹介しておきたい。


 それは、福岡庄太郎という日本人である。彼は身長180㎝を超す大柄で、武術を得意としていた。当時、アスンシオン市内に農園を開き、野菜と花卉を栽培していた。

彼がパラグアイに入ったのは1915年で、ラ・コルメナ入植開始より20年も先駆けており、今年で100周年を記念するパラグアイと日本の国交樹立よりも5年早い。パラグアイに入った日本人第1号であった福岡庄太郎氏は、アスンシオン警察庁の柔術指南役、日本国名誉領事といった業績を経て、大きな信頼を積んでいった。このことは、日本人移住者がパラグアイで優遇され、良好な関係を築くことに大きく影響したと思われる。


 福岡庄太郎氏は、1878年佐賀県唐津市で鉄砲火薬販売問屋を営む福岡善助、ナカの長男として誕生した。1895年 唐津中学校(現・佐賀県立東高等学校)を卒業し、稼業を手伝う中、結婚し長男をもうけるも、1902年 妻子を置いて貨物船に乗込み単身渡米する。

ニューヨークを中心に異種格闘技興行を行い、1903年には渡欧し,パリなどで興行試合を重ねた後,再び渡米。1904年にはニューヨークで異種格闘技興行に参加する前田光世 (後にブラジリアン柔術創始者の師匠)と遭遇している。





写真左:上_前田光世、下_福岡庄太郎


 1906年 興行のためにアルゼンチンの首都ブエノスアイレスに入国。ロサリオ市で行われた興行がロサリオ市警察に評価され、当時日本人が未入植であったロサリオ市に居を構えた。ロサリオ市警察・サンタフェ州警察学校で柔術を指導するかたわら、ロサリオ市内で柔術道場、マッサージ業を開業した。そして現地のスポーツクラブで柔術、剣術、水泳、体操を教えると共に、フェンシングなどを学んだ。



















 なお、この頃の日本は日露戦争に勝利したことと、その際にアルゼンチンの軍艦を購入したことから、好意的に見られていた。福岡氏の武術指導も大人気であったと想像される。


 しかし、1915年 ロサリオにおいて冬の季節に大病を患い、暖かい気候の新天地を求めパラグアイの首都アスンシオンへ渡る。当時3つの国を相手に戦い敗戦し、国土の3分の1近くと成人男性の大半を失ったパラグアイには、「木から女が降ってくる国」という伝説があった。これも冒険心の強い福岡を狩りだした要因だったようである。

 1916年、アスンシオンでドイツ系移民のマリア・ファナ・ヒメネスと出会い、結婚する。

同年10月にレスラーのMax Gallantと興行試合を行ったことで観客の支持を受け、12月にはアスンシオン市警察で柔術を指導することになり、柔術の先生として新聞で紹介される。

















 アスンシオン市内の中心部のウルグアイ公園付近では柔術の道場、花屋を経営。そして複数の公立学校で教師や体育教師に就任する。また一方では裁判所の陪審員として選出されるなど社会的地位も確立されていった。特にスポーツ界で注目され、体操&フェンシングクラブのメンバーに選出され、柔術の他に水泳、ボクシング、レスリングなども指導するようになった。


1931年には、花屋以外の仕事を辞める。

1932年チャコ戦争開始。(1935年終結)


 日本政府のブラジルへの移民事業が、土地が手に入らなくなったことで難航し、代わりの入植先としてパラグアイに関心が向けられるようになった。1933年、ラ・コルメナ移住地開設の視察に訪れた宮坂国人(ブラジル拓殖組合専務理事)を案内したことがきっかけで、ラ・コルメナ移住地造成に全面的に参加するようになる。1935年には日本パラグアイ文化協会の発足に際し、理事を務めた。

1936年に日本・パラグアイ間で移住協定が結ばれ,ラ・コルメナ移住地へパラグアイ初の日本人集団移住が行われる。この時にはパラグアイ社会において福岡氏の信頼が高かったため、日本人入植者は誰も苦労なく手続きや作業をすることができた。


 1939年の太平洋戦争が勃発した年に、日本は敵国となったにも拘わらず、日本人はラ・コルメナから出ないということで、特に束縛されることも監視されることもなかった。

そして福岡庄太郎氏は、パラグアイ国経済使節団の一員として帰国,皇紀2600年祭において海外発展功労者として松岡外務大臣により表彰される。

その後アスンシオンにおいて名誉領事を務め、1947年、第2次世界大戦の終結2年後にアスンシオンで死去した。(享年69歳)


 福岡氏の死亡記事はアスンシオン、ロサリオ両市の複数の新聞に大きく掲載され、アルゼンチンとパラグアイの両国において、高く尊敬されていた人物であったことがうかがわれる。

世界をまたにかけて冒険し、パラグアイに愛する生涯のパートナーを見つけた。そして自慢の武術をおいて、妻の愛する花を扱って暮らすようになったこの興味深い彼の人生に、パラグアイがもつ平和な理想郷のスピリッツを感じる。G.I.


考文献:

  1. 酒とバラのパラグアイの日々「幻の武道家 福岡庄太郎」/高倉道夫

2.武道の海外普及に関する一考察「福岡庄太郎によるアルゼンチンへの柔術の普及」/立命館大学 薮耕太郎

特集記事
最新記事
アーカイブ
タグから検索
まだタグはありません。
ソーシャルメディア
  • Facebook Basic Square
  • Twitter Basic Square
  • Google+ Basic Square
bottom of page