PBN No.202コラム『11月17日:パラグアイ文化の日』
11月3日、日本の祝日法は「平和と自由を愛し、文化を進める日」として文化の日を定めている。一方、パラグアイでは、文化庁設立10周年を切っ掛けに「国民の豊かさと多様性を尊重する日」として、11月17日を文化の日として祝うようになったという。10日から17日までの一週間に、『Semana de la Cultura y la Diversidad(文化と多様性週間)』と題した様々な催しが旧市街セントロを中心に全国各地で行われた。
金曜日から日曜にかけて、旧市街の中心地、パンテオンに隣接する4つの公園を会場とし、文化庁をはじめとする様々な機関の後援のもと、今回のメインイベントとなる催しが行われた。英雄公園には多くの書籍のブースが並び、エストレージャ通りは、工芸品の露店や屋台で賑わった。金曜日はエストレージャ通りにステージが組まれ、多様性を前面に出したパフォーマンスが行われた。
ナショナル・ダンス・スクールの生徒によるお馴染みのボトルダンスやパラグアイの新世代バンド『MBARETE』による演奏で会場は賑い、パラグアイの伝統料理やメキシコ料理、ベネズエラ料理を食べながら、多くの人が民芸品や本、ダンス、音楽など多様な文化に触れることのできるイベントとなった。
パラグアイにおける多様性として、植民地時代に人口の50%に達したといわれるものの、現在は1%にまで減少したアフリカ系移民の存在や、先住文化については、より多くの人々に認識されるべきことだろう。植民地時代にアフリカから南米大陸へ奴隷として連れてこられ、ここに定住したアフリカ系パラグアイ人(アフロ・パラグアージョ)はアスンシオン近郊のフェルナンド・デ・ラ・モラや、エンボスカーダ、パラグアリに大きなコミュニティを作って暮らしたそうだ。近年注目を集めているのが、フェルナンド・デ・ラ・モラのコミュニティ『カンバ・クア(Kamba Kúa)』である。グアラニー語で黒い洞窟という意味らしい。1820年ウルグアイから亡命したJ.G.アルティガス将軍と共にやって来た300家族に対し、当時のパラグアイの元首であった、フランシア博士がこの土地を与えたという。
世紀を超え、子孫たちが受け継いだアフロ・カルチャーを、ダンスとパーカッションで表現する同名のグループ『カンバ・クア』は、最近国内外で注目を浴びている。この日も多くの観客を沸かせていた。技術的には少々物足りないが、伝統を今に受け継ぐこと、特にアフリカ系移民への根強い差別が残るパラグアイでアイデンティティを主張することに大きな意味がある。
同じくエンボスカーダからもアフロ系ダンスとパーカッションを披露する若者たちが出演した。他にも植民地時代以前のグアラニー民族楽器を演奏するグループのプレゼンテーションもあった。もっと多くの人がパラグアイのアイデンティティとして、チーパやソパ・パラグアージャ、グアラニア音楽、パラグアイ・ポルカ以外の古い文化と多様性を捉える日がくれば、次世代の文化はより深いものになると思う。植民地時代に追いやられた先住文化や、管理下にあったアフロ・パラグアージョ文化、多様化の進む現在だからこそ、過去に虐げられたこれらの文化について認識し、再評価する必要があるのではないか。
イベントが終盤に差し掛かると、パナマ、メキシコ、コロンビアなどラテンアメリカ各国のダンスが披露され、大きな盛り上がりを見せた。コロンビアはラテンアメリカ全域で耳にするリズムが特徴的な音楽、クンビア発祥の地。パラグアイでもクンビアのリズムを聴かない日はない。そのルーツであるクンビア・コロンビアーナにのせて踊るコロンビアの伝統ダンスが始まると、エストレージャ通りはダンスフロアと化した。日本文化として、創価学会の太鼓チームも招かれていた。
土曜日はステージを民主主義公園に移し、フィエスタは続いた。貧富の差が激しいパラグアイでは、主に政府主催のイベントを通じて、文化に触れることになる。すなわち、こういったイベントの影響力は大きい。同時に、市民が触れることのできる文化に限りがあるという意味で、この国にはまだまだ多様性という言葉はふさわしくないかもしれない。今年で4年目となるこのイベント、今後の取り組みの積み重ねが真の多様性を育むきっかけとなることを祈る。TT
エストレージャ通りに並ぶ露店
カンバ・クアのステージ
クンビア・コロンビアーナ
土曜日のステージ
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